名古屋地方裁判所 昭和55年(ワ)2557号 判決 1989年2月17日
原告
堀井則英
右法定代理人親権者父
堀井德延
右同 母
堀井節子
原告
堀井德延
原告
堀井節子
原告三名訴訟代理人弁護士
加藤良夫
右同
伊藤道子
右訴訟復代理人弁護士
池田伸之
被告
医療法人伊藤病院
右代表者理事
伊藤松子
被告
伊藤龍三
被告両名訴訟代理人弁護士
立岡亘
右同
後藤昭樹
右同
太田博之
主文
一 被告らは、各自、原告堀井則英に対し金四二〇二万五〇六九円、同堀井德延、同堀井節子に対し各金四二五万円及びこれらに対する昭和五二年七月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの、その余を被告らの各負担とする。
四 この判決は第一項に限り仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、各自、原告堀井則英に対し金六二〇〇万円、同堀井德延、同堀井節子に対し各金九〇〇万円及びこれらに対する昭和五二年七月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 本件事故の発生
(一) 原告節子は、昭和五一年一二月二一日、妊娠のため被告医療法人伊藤病院(以下、被告法人という)の経営する伊藤病院(以下、伊藤病院という)において、被告伊藤龍三(以下、被告医師という)の診察を受け、被告医師から妊娠三か月と診断され、その後、定期的に被告医師の診察を受けていたが、昭和五二年六月二日、同年七月一一日の各診察時に、被告医師から胎位(胎児の縦軸と子宮の縦軸との関係をいう)が横位(胎児の縦軸と子宮の縦軸が直角に交差している胎位で、胎児が横向きになっている位置のものをいう。以下、横位という)である旨診断された。
(二) 原告節子は、同年七月一四日から陣痛が始まり、翌一五日朝陣痛が強くなったので、午前一〇時一五分頃、伊藤病院に入院した。その際胎児の発育も良好であって、児心音も正常であったが、被告医師が、原告節子を内診(子宮内診察)したところ、子宮口が3.5横指開大し、胎胞が膨隆していることが認められ、胎児の先進部に触れたが、右先進部が手であるか足であるか不明であったため、胎位を確定診断せず、外回転術を試みることもなく、原告節子を分娩室に移動し、分娩室において、経膣分娩を進行させたが娩出しなかった。
(三) そして、前同日午前一〇時四〇分頃、原告節子の陣痛が約一〇分間隔の規則的なものとなり、また、やや強くなり、子宮口が殆ど全開大した時、被告医師が、同女の腹部を強く圧迫したところ、パーンという音がして、原告節子は破水した。被告医師は、右破水後、内診して、「あっ手だ、足ではない。」といって横位と判断し、帝王切開手術(以下、帝王切開という)により娩出することを決定して、その準備を開始したが、児心音はこの時点においても正常で、羊水の混濁はみられなかった。
(四) 原告則英は、前同日午前一一時四五分、帝王切開により、体重三二三〇グラムで娩出されたが、呼吸が不整で、けいれんがあり、全身にチアノーゼが現われ仮死二度の状態であったため、被告医師は人工蘇生器により蘇生術を施し、娩出後約一五分してようやく弱く啼泣したが、呼吸は不整で、下顎のけいれんがみられ、原告則英の状態は悪化し.改善するには至らなかった。そこで、原告則英は、翌一六日午前一〇時、新生児集中治療施設等の設備のある大学病院に転送された。
(五) 原告則英は、大学病院に転送後、検査、治療を受け、その後、施設において訓練を受けたが、脳性小児麻痺のため、一一歳に至る現在も、直立不能で、言葉を全く話せず、日常生活の全てに介護を要する状態であり、昭和五四年五月一五日、愛知県から周産期障害による脳性小児麻痺ということで身体障害者手帳(第一種二級)の交付を受けている(以下、本件後遺症という)。
2 本件後遺症の原因
(一) 本件後遺症の原因は、分娩時における酸素欠乏によるものである。すなわち、本件後遺症の原因につき、先天性を疑うべき点のないことは、原告則英が、三二三〇グラムで出生し、出生前の発育状態は順調であって、帝王切開による娩出の約一時間五分前まで児心音が全く正常であったことが明らかである。
(二) 分娩期に横位で破水した場合には、胎児が異常な姿勢で圧迫を受け、血液循環の障害を起こすとか、羊水の流出により臍帯が圧迫され、血流障害を起こすことがあり、低酸素症、無酸素症を惹起する。そして、原告節子は、子宮口全開大で破水したことにより羊水が多量に流出し、しかも、その後陣痛が一層強くなり、胎児及び臍帯が圧迫を受けたから、原告則英は、子宮内で約一時間酸素不十分の状態におかれ、低酸素症、無酸素症を惹起し、胎児切迫仮死の状態を経て、新生児仮死(仮死二度)となったものと考えられる。
3 被告らの責任
(一) 被告医師の不法行為責任
(1) 被告医師の診療上の過失
入院時に胎位を正しく診断しなかったこと
① 胎位によって分娩の方法が著しく異なるため、分娩経過中の胎位を知ることは、産婦人科医師にとって極めて重要である。横位の場合には、胎児が正常に発育している場合、そのままでは経膣分娩が不可能であり、また、陣痛があって子宮口が二横指開大した段階に至ると、横位から胎位が頭位(胎児の縦軸と子宮の縦軸が一致する関係にある胎位で胎児が縦の位置にあるものを縦位といい、縦位で、児頭が子宮の下方に位置するものを頭位という。以下、頭位という)または骨盤位(胎位が縦位で、胎児の骨盤端が子宮の下方に位置するものをいう。以下、骨盤位という。頭位と骨盤位は経膣分娩の適応がある)に自然回旋することは期待できなくなる。そして、横位で破水した場合には臍帯脱出が起き易くなり、臍帯脱出があった場合には、臍帯圧迫による胎児への血流途絶により胎児が死亡することがあるし、臍帯脱出がない場合でも、分娩が進行するに従い、胎児が無理な姿勢を強いられ、子宮内で臍帯が圧迫されるなどして、胎児仮死から胎児死亡に至ることがある。
そのため、横位を疑う場合は、胎児の安全を確保するために、分娩に際し、胎位を正しく診断することが特に重要であり、そして、通常産婦人科医師にとって、胎位の診断は触診によって容易にすることができ、また、昭和五二年当時、レントゲン写真によっても、確定診断が可能であった。
② 被告医師は、昭和五二年七月一一日の定期診察時において、原告節子が横位であることを知っていたのであるから、原告節子の入院時(同月一五日午前一〇時一五分)、同人を内診した際、すでに陣痛があり、子宮口が3.5横指開大し、胎胞が膨隆して、胎児の先進部に触れる状態であった以上、胎児が横位であるか否か正しく確定的に診断して対処すべきであった。ところが、被告医師は、右先進部分が手か足か不明であるから、横位の可能性が高いとしながらも、確定的に横位と診断せずに、仮に横位であっても頭位または骨盤位に自然回旋する可能性があると判断して、外回転術を試みることもなく待機し、胎位の確定診断をしなかった。
入院時に直ちに帝王切開の準備をしなかったこと
① 子宮口が二横指開大した段階に至って、なお横位である場合の分娩術としては、子宮口全開大後の内回転術をするか、または帝王切開の方法しかない。仮に、右の段階で横位のまま破水すると、前項①のとおり、胎児への危険、悪影響が切迫するため、直ちに帝王切開が必要となり、そして一般に帝王切開の準備には約一時間を必要とするが、右準備が整っていれば、執刀から胎児の娩出までにはわずか数分で足りるから、右破水により胎児仮死の徴候をみた場合でも、酸素欠乏による後遺症を残さない処置が十分可能である。
そこで、胎児の安全を確保するためには、子宮口が二横指開大してなお横位である場合、胎児が横位から頭位または骨盤位に自然回旋しない可能性が高いので、その場合のために帝王切開の準備を開始し、必要になった時点で直ちに帝王切開(執刀)ができるようにする必要があり、右準備は「ダブル・セット・アップ」といわれ、横位の妊婦を取り扱う産婦人科医師の基本的義務である。
② 原告節子は、入院時点において、子宮口が3.5横指開大し、胎胞が膨隆して、横位であった(被告医師も横位であろうと考えていた)から、経膣分娩の適応のある頭位または骨盤位に自然回旋する可能性が極めて少ない状態にあったので、被告医師としては、この時点で直ちに帝王切開の準備をすべきであったが、自然回旋の希望的観測を持ち、直ちに帝王切開の準備を開始しなかった。
外回転術をしなかったこと
① 横位のままでは、経膣分娩が不可能であり、破水後の内回転術が帝王切開によらざるをえないから、分娩時に横位である妊婦を取り扱う産婦人科医師としては、破水前の段階において、外回転術により胎位を頭位または骨盤位に矯正することを試みる義務がある。
② しかし、被告医師は、原告節子が陣痛を訴え入院した時点で内診し、横位であろうと考えたのにもかかわらず、破水するまでの間、外回転術により胎位を頭位または骨盤位に矯正することを試みなかった。
内回転術をしなかったこと
① 産婦人科医師としては、横位で破水し子宮口が全開大した場合に、帝王切開の準備がなされておらず、その準備に一時間も要する場合には、前記のとおり胎児仮死の危険があるので、直ちに、内回転術により胎児を娩出するよう試みる義務がある。
② しかし、原告節子が破水した時点において、子宮口が全開大し横位であることが確認され、帝王切開の準備もなされていなかったのであるから、内回転術により胎児を娩出する技量を有している被告医師としては、直ちに、内回転術により胎児を娩出することを試みるべきであったのに、これをしなかった。
新生児仮死蘇生を適切に行なわなかったこと
① 新生児が仮死の状態で娩出され、特に呼吸障害がある場合には、仮死蘇生の方法として、直ちに、口腔内等の吸引をしたのち、気管内挿管をして、肺に酸素を送るのが最も適切であり、産婦人科医師としては、仮死蘇生をさせる右方法をする義務がある。
② しかし、被告医師は、原告則英が仮死二度の状態で生れ、呼吸障害があったのに、気管内挿管をせず、右の適切な仮死蘇生の方法を講じなかった。そのため、原告則英が啼泣するまでに約一五分を要した。
転医(転送)を適切に行なわなかったこと
① 産婦人科を専門とする伊藤医院で診療にあたる被告医師としては、原告則英が仮死二度の状態で娩出され、約一五分後にようやく弱く啼泣し、呼吸は不整で、下顎のけいれんもみられたものであるから、その時点で、新生児を取り扱う専門小児科医等スタッフのいる新生児集中治療施設等の設備を有する総合病院へ、保育器に入れるなどの適切な方法で転医させる義務があった。
② しかしながら、被告医師は、約二二時間もの間、右総合病院に転医させず、しかも転医の方法は、原告則英の状態が悪かったにもかかわらず、保育器にも入れず、家族のものに乗用車で運ばせた。
(2) 被告医師の右過失と原告則英の本件後遺症との因果関係
本件後遺症は、前記2のとおり、破水後の帝王切開による娩出が遅れたことにより酸素欠乏が生じたことが原因であるが、右娩出が遅れたのは、原告節子の入院時において、横位であることの確定診断をせず、帝王切開の準備を直ちにしなかったことによるのであり、そして、仮死蘇生の方法及び転医の時期、方法が適切でなかったことも、本件後遺症の発生原因である呼吸障害、酸素欠乏の観点からすると、本件後遺症を悪化させた原因と考えられる。また、外回転術、さらに内回転術を試みて、頭位または骨盤位に胎位を矯正できれば、経膣分娩が可能であり、周産期における酸素欠乏の事態も起こらなかったと考えられるから、外回転術及び内回転術を試みなかったことは、本件後遺症の原因と考えられる。
(3) よって、被告医師には、本件後遺症の発生によって生じた損害につき、不法行為責任がある。
(二) 被告法人の使用者責任
(1) 被告医師は、伊藤病院に勤務する医師であり、被告法人の被用者であるが、被告医師の前記3(一)の診療行為は、その職務の執行についてなされた行為である。
(2) そして、前述のとおり、被告医師の前記診療行為は不法行為を構成するから、被告法人は、民法七一五条一項に基づき使用者責任がある。
(三) 被告法人の債務不履行責任
(1) 被告法人は、原告德延、同節子との間で、昭和五二年七月一五日、原告節子が伊藤病院に入院するに際し、原告則英の出生を条件として、同人の安全娩出の確保と娩出時の疾患の治療を内容とする準委任契約(第三者のためにする契約)を締結し、同人の出生後、原告德延、同節子が、原告則英を代理して、右契約の受益の意思表示をした。
(2) しかし、被告法人の履行補助者たる被告医師は、前記3(一)のとおりの不完全履行をなし、原告則英に本件後遺症を発生させた。
よって、被告法人には、右診療契約不履行に基づく損害賠償責任がある。
4 損害
(一) 原告則英の損害
(1) 介護費 金四五〇〇万円
原告則英は、終生他人の介護なくしては生活ができない状態にあり、右介護には、一日当たり金五〇〇〇円を下回らない出費を要するので、平均余命をもとに、ホフマン式計算法により中間利息を控除して求められる介護費の現価の内金である。
(2) 逸失利益 金一二〇〇万円
原告則英は、終生労働が全く不能であり、一八歳から六七歳まで四九年間就労できたから、平均賃金センサスをもとにホフマン式計算法により求められた逸失利益相当の損害を受けるが、その内金である。
(3) 慰謝料 金五〇〇万円
原告則英は、身体障害者第一種二級の後遺症が残り、甚大な精神的苦痛を受けたが、これを慰謝するには金五〇〇万円の支払をもって相当とする。
(二) 原告德延、同節子の損害
(1) 慰謝料 各金七五〇万円
原告德延、同節子は、前記3(一)の不法行為によって、両名の子原告則英が身体障害者第一種二級の後遺症となり、生命を害されたことに比肩されるほどの精神的苦痛を受けたが、これを慰謝するには、それぞれ金七五〇万円の支払をもって相当とする。
(2) 弁護士費用 各金一五〇万円
被告らは、任意の賠償に応じないため、原告德延、同節子は、原告ら代理人に本訴提起及び訴訟追行を委任したが、本件不法行為と相当因果関係のある弁護士費用は右両名各金一五〇万円をもって相当とする。
5 よって、被告法人に対して使用者責任に基づき、選択的に債務不履行責任に基づき、被告医師に対して不法行為責任に基づき請求の趣旨記載の各金員及びこれらに対する不法行為の日である昭和五二年七月一五日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1について
(一) 請求原因1(一)の事実は認める。
(二) 請求原因1(二)の事実中、入院及びその日時、児心音は正常であったこと、被告医師が右入院に際し、原告節子を内診(子宮内診察)し、子宮口が3.5横指開大し、胎胞が膨隆していることを認め、胎児の先進部に触れたが、右先進部が手であるか足であるか不明であったため、胎位を確定診断せず、原告節子を分娩室に移動したことは認め、その余は否認する。
(三) 請求原因1(三)の事実中、右同日午前一〇時四〇分頃、原告節子の陣痛が約一〇分間隔の規則的なものとなり、また、やや強くなり、子宮口が殆ど全開大し破水したこと及びそのころ、右破水後、被告医師は内診して横位と判断し、帝王切開することを決定し、その準備を開始したが、児心音はこの時点においても正常で、羊水の混濁も認められなかったことは認め、その余は否認する。右破水は被告医師が内診したのと同時に発生したのであり、また内回転術は、適応困難と判断したため断念したである。
(四) 請求原因1(四)の事実中、けいれんの症状は否認し、その余は認める。
(五) 請求原因1(五)の事実は不知。
2 請求原因2について
主張事実は、いずれも否認する。横位で破水した場合、破水後もしばらくは、胎児が骨盤位に嵌入固定せず、そのため神経節を刺激しないので、陣痛が消失ないし減弱するが、子宮壁も弛緩しているから、横位に起因する酸素不足の悪影響の出現までには数時間の経過を要するのであるから、本件では破水後約一時間で娩出していることからして、この間に胎児に不自然な姿勢を強いたことは考えられない。
3 請求原因3(一)について
(一) 請求原因3(一)(1)について
(1) 請求原因3(一)(1)の事実は否認し、過失の点は争う。
陣痛に伴い子宮口が二横指開大し、しかも横位の場合でも、子宮壁の柔らかさ、羊水の量、胎児の大きさなどにより、横位から縦位に自然回転することが期待でき、原告節子は経産婦で、羊水がやや多く、妊娠中に何度も胎位が変化していることから、自然回転が期待できると思われた。また、臍帯脱出や上肢脱出のない場合は、横位で破水した場合でも、数時間は、胎児が子宮腔内で無理な姿勢を強いられたり、臍帯が圧迫されることはない。
そこで、被告医師は、横位を疑ったが、骨盤位に自然回転することを期待して待機したのであり、確定診断をしなかったことは何ら過失ではない。
(2) 請求原因3(一)(1)の事実中、帝王切開の準備には約一時間を必要とし、執刀から胎児の娩出までは数分で足りることは認め、その余は否認し、過失の点は争う。
原告節子は、昭和五一年一二月二一日の初診後、昭和五二年七月一五日入院するまでの間、被告医師に計一一回定期の診察を受けており、その間児心音はいつも正常であったが、胎位は同年六月二日、七月一一日に第二横位(母体からみて、胎児の頭が左側にあるのを第一横位、右側にあるのを第二横位という)となっていた。そして、同年七月一五日午前一〇時一五分頃陣痛の発来を訴えて入院し、陣痛はやや不規則で約七から一五分間隔で、あまり強くなく、子宮口の開口は3.5横指開大で、胎胞膨隆し、被告医師は、胎児の先進部分に触れたが、それが手あるいは足の小部分か不明で、骨盤位か横位か診断しかねた。
被告医師は、右の経過から、原告節子の陣痛がまだ不規則であり、今後陣痛が規則的になり、強くなれば、同人が経産婦で腹壁が柔らかく、胎位が何度も変遷していることから、仮に横位であっても自然回転が期待できるし、また、児心音にも異常はみられないので、しばらく経過観察できうるものと考え、同人を分娩室に移し、経過を観察した。
被告医師は、破水するまで横位であったとしても、内回転術を試みて骨盤位にできる機会もあるし、それが不可能の場合は、帝王切開を決定すればよいと考えていたし、横位の場合でも、前記のとおり、破水後直ちに胎児や臍帯が圧迫されるものではなく、低酸素状態や無酸素状態に至るには早くても数時間後であるから、右入院時点で、帝王切開の準備をしなかったことに過失はない。
そのうえ、被告医師は、帝王切開による場合を考えて、右入院時において、看護婦らに対し、下準備として帝王切開に必要な手術器具の取り揃え、消毒用の煮沸、麻酔器具の点検を指示し、右下準備がなされていたのであるから、被告医師には何ら過失はない。
(3) 請求原因3(一)(1)は争う。
(4) 請求原因3(一)(1)は争う。
(5) 請求原因3(一)(1)は争う。仮死新生児に対する処置としては、気道内の羊水、粘液の除去、心機能の亢進、呼吸運動促進のための人工呼吸、酸素供給などがあり、被告医師は、まず気管カテーテルで気道内の羊水や粘液を吸引して除去し、次いで、人工蘇生器を用いてあるいはマウス・ツウ・マウス法等で、呼吸促進、酸素供給に努めた。気管内挿管は右の方法と選択される一つの処置であるが、必須のものではなく、被告医師は、当該場面における医師の治療方法選択の判断に基づき人工蘇生器等の方法を選択したものであって、何ら過失はない。
(6) 請求原因3(一)(1)の事実中、原告則英が仮死二度で娩出され、約一五分後にようやく弱く啼泣したが、呼吸は不整であったこと、約二二時間後に、保育器に収容せず、家族のものに転医させたことは認め、過失の点は争う。被告医師は、原告則英の状態及び症状の推移をみて検討した結果転医を指示したのであって、何ら転医が時期に遅れたということはないし、また、転医の方法も、原告則英の状態と転医に要する時間等を考慮した結果、格別保育器の使用の必要も認めなかったのであり、原告則英の予後に悪影響を与えたものではないから、被告医師には過失がない。
(二) 請求原因3(一)(2)について
請求原因3(一)(2)の事実はいずれも否認する。原告則英の本件後遺症の発生原因は、前記のとおり、分娩期の酸素欠乏によるものではなく、また、蘇生の方法も転医の時期方法も、いずれも本件後遺症を悪化させた原因とはなっていない。
(三) 請求原因3(一)(3)について
請求原因3(一)(3)は争う。
4 請求原因3(二)について
請求原因3(二)(1)の事実中、被告医師は、被告法人の経営する伊藤病院に勤務する被告法人の被用者であることは認めその余は不知、同3(二)(2)は争う。
5 請求原因3(三)について
請求原因3(三)(1)の事実は認め、同3(三)(2)は争う。
6 請求原因4について
請求原因4の各事実はいずれも不知。
第三 証拠<省略>
理由
第一本件事故の発生
一当事者間に争いのない事実
1 原告節子は、昭和五一年一二月二一日、妊娠のため被告法人の経営する伊藤病院において、被告医師の診察を受け、被告医師から妊娠三か月と診断され、その後、定期的に被告医師の診察を受けていたが、昭和五二年六月二日、同年七月一一日の右各定期診察時に被告医師から横位である旨診断された。
2 原告節子は、昭和五二年七月一五日午前一〇時一五分頃、伊藤病院に入院した。その際、児心音も正常であったが、被告医師が原告節子を内診し、子宮口が3.5横指開大し、胎胞が膨隆していることを認め、胎児の先進部に触れたが、右先進部が手であるか足であるか不明であったため、胎位を確定診断せず、原告節子を分娩室に移動した。
3 同日午前一〇時四〇分頃、原告節子の陣痛が約一〇分間隔の規則的なものとなり、また、やや強くなり、子宮口が殆ど全開大し、その頃、原告節子は破水した。被告医師は、右破水後、内診して横位と判断し、帝王切開により娩出することを決定して、その準備を開始したが、児心音はこの時点においても正常で、羊水の混濁はみられなかった。
4 原告則英は、同日午前一一時四五分、帝王切開により、体重三二三〇グラムで娩出されたが、呼吸が不整で、全身にチアノーゼが現われ、仮死二度の状態であったため、被告医師は人工蘇生器により蘇生術を施し、娩出後約一五分してようやく弱く啼泣したが、呼吸は不整で、原告則英の状態は悪化し、改善するには至らなかった。そこで、原告則英は、翌一六日午前一〇時、新生児集中治療施設等の設備のある大学病院に転送された。
以上の各事実はいずれも当事者間に争いがない。
二右当事者間に争いのない事実及び<証拠>によれば以下の事実が認められ<る>。
1 原告節子は、すでに昭和四九年七月二九日三二二〇グラムの児を正常に経膣分娩した経産婦であったが、昭和五一年一二月二一日に伊藤病院において被告医師から妊娠三か月の診断(初診)を受け、以後昭和五二年七月一五日入院するまでの間、被告医師に計一一回定期の診察を受けており、その間児心音はいつも正常であり、また、母体である原告節子は昭和五二年六月一三日の診察時に軽い妊娠中毒症の疑いがもたれたが、検査の結果肝機能検査項目に数値上軽微な異常が認められたが、臨床上問題とするほどのものでなく、その他諸検査の異常もなかった。
しかし、同年六月二日の診察時に、胎位は第二横位であったので、被告医師が外回転術を試みたが、成功しなかったので、原告節子に、腹帯をとって右下側臥位で寝ることを勧めたところ、同年六月一三日の診察時には、胎位は第二頭位に自然回転していた。その後、同年七月二日の診察時には、胎位は第一頭位であり、子宮底は正常に発育し、子宮は柔らかく羊水はやや多いめであり、胎児の下降がみられなかったが、同年七月一一日(出産予定日から三日経過)の診察時には再び胎位が第二横位に自然回転していたため、被告医師が外回転術を試みたが、成功しなかったので、原告節子に、腹帯をとって右下側臥位で寝ることを勧め、変調があったら、なるべく早く来院するように指示した。
2 原告節子は、同年七月一四日夕方から不規則の陣痛が始まり、翌一五日朝、陣痛の間隔が一〇分ないし一五分間隔となったため、同日午前一〇時一五分頃に、伊藤病院に入院した。その際、被告医師が診察したところ、児心音は正常であり、陣痛の間隔は七分から一五分位の不規則で、子宮口は、約3.5横指開大し、やや胎胞が膨隆し、胎胞卵膜を通して手あるいは足を思わせる胎児の先進部(小部分)に触れた。
3 そこで、被告医師は、同年七月一一日の診察時に、横位であったが、分娩初期における陣痛により骨盤位への自然回転もありうると考え、八割程度は横位で、二割程度が骨盤位である可能性が高いと考え、その後の経過をみることにして、レントゲン検査による確定診断まではしなかった。そして、被告医師は、子宮口の開大の様子と原告節子が経産婦であることから、早ければ二、三時間以内に経膣分娩すると予想し、陣痛間欠期に、外回転術を試みたが成功しなかった。
4 被告医師は、原告節子が、腹壁が柔らかく、羊水もやや多く、妊娠経過中に胎位が変遷していたことから、胎児も動き易いと考え、陣痛が強くなることによって、骨盤位に変わることがありうるとの期待から経過をみて処置を決定することにして、原告節子を分娩室に移し、看護婦には帝王切開のありうることを告げ、下準備を指示した。そして、分娩室では、破水を防ぐため、陣痛が起きた場合には、腹圧の掛からないように腹式呼吸を指導し、児心音を監視したが、しかし、帝王切開ができるように直ちに準備することは指示しなかった。
5 前同日午前一〇時四〇分、原告節子の陣痛が約一〇分の間隔で規則正しく起きてきたので、被告医師が内診すると、子宮口が殆ど全開大していた。そして、内診と同時に破水したので、被告医師は、胎児の先進部分を手指で触れると、肘あるいは前腕であったため、横位と確定診断をした。そこで、被告医師は、内診の際、胎児の足を容易に掴むことができなかったため、内回転手術は不可能と判断し、直ちに帝王切開により娩出することを決定して、その準備を看護婦に指示したが、その時、児心音は正常で、破水した羊水も混濁していなかった(羊水の中に胎便が排出されることにより羊水が濁る)。
6 そして、手術器具の消毒等帝王切開の準備を完了したが、その時、臍帯の下垂や脱出、巻絡、過捻転はみられず、被告医師は、帝王切開に着手し、手術時間五、六分にして、前同日午前一一時四五分原告則英を母体外に取り出し、臍帯を切断した。
7 しかし、原告則英が啼泣しなかったので、助産婦が、原告則英に気管カテーテルを挿入し、鼻膣と喉の収入物を吸引したが、まだ啼泣しなかったので、被告医師が診察すると、原告則英の心音は割合規則正しく聴取できたが、心拍数は一〇〇前後で、呼吸は全くなく、全身にチアノーゼがみられ、反応もカテーテルによってかすかにある程度であった。そのため、被告医師は仮死二度の状態であると診断し、口と鼻口にマスクを当てがい圧力を加えて人工的に呼吸を発動させる人工蘇生器で蘇生を試み、また、マウス・ツウ・マウスの方法と胸を圧迫する方法の人工呼吸を施し、同時に強心剤、呼吸促進剤を注射した。
8 その後、原告則英は、約一五分して軽く啼泣し、呼吸を開始したが、不整で粗かったため、原告則英を直ちに保育器に入れ、酸素を供給した。しばらくして、原告則英は、徐々にチアノーゼが消えていったが、呼吸はいぜんとして不整で、粗い状態が続き、下顎にけいれんがみられ、そして、翌一六日午前二時四〇分頃、全身けいれんがみられたので、鎮けい剤で抑制したが、同日午前三時二五分頃からまたけいれんが頻発し、次第に強くなり、呼吸も不整で、悪化した。
9 そこで、被告医師は、専門医の治療が必要であり、また、蘇生後の時間的経過から移動ができる状態と考えて、新生児集中治療室等の設備のある大学病院の小児科に連絡して転送の手配をし、同日午前一〇時頃、原告則英を保育器から取り出して、原告徳延に直接手渡し、同人らにより右大学付属病院小児科に転送させた。
10 原告則英は、大学病院に転送後各種の検査・治療・訓練を受けたが、脳性小児麻痺のため、一一歳に至る現在も歩行、起立ができず、言葉を殆んど話せず、自分ひとりで食事することもできない状態であって、昭和五四年五月一五日、愛知県から周産期障害による脳性小児麻痺ということで障害者手帳(第一種二級)を受けており、現在は原告節子が養護学校への送迎をはじめ、身の回りの世話をしている。
11 伊藤病院では、昭和五二年当時、通常、帝王切開の準備を開始してから、手術に着手し、胎児を娩出するまでの所要時間は約一時間から一時間一五分かかり、また、帝王切開の下準備の指示がなされた場合には、通常、手術器具の選別、消費用の煮沸、麻酔器具の点検をすることになっていて、消毒用の煮沸には約一五分を要したが、そのほかは直ちにすることができた。
12 伊藤病院では当時分娩室で助産婦または看護婦が産婦の状態を監視し、約一〇分から一五分間隔で児心音を聴取していたが、原告節子が破水した昭和五二年七月一五日午前一〇時四〇分から原告則英を娩出した同日午前一一時四五分までの間の、原告節子の陣痛の状態、児心音の状態を記録した診療記録は処分され現存しない。
以上の事実が認められる。
第二横位分娩における処置等に関する医療の実際
<証拠>によれば、以下の事実が認められ<る>。
一胎位
胎児の縦軸と子宮の縦軸との関係を「胎位」といい、胎児の縦軸と子宮の縦軸が一致する関係にある胎位を「縦位」といい、胎児の縦軸と子宮の縦軸が直角に交差している胎位を「横位」といい、縦位で児頭が子宮の下方に位置するものを「頭位」といい、縦位で胎児の骨盤端が子宮の下方に位置するものを「骨盤位」という。
胎位は、昭和五二年当時一般開業医では、触診により診断し、妊娠六か月以後は、胎位の診断は一般にそれほど困難ではなく、不明の場合の確定診断はレントゲン検査が用いられていたが、放射能被爆の危険性から、近年は、妊娠中の胎児に対するレントゲン検査は必要やむを得ない場合に限るべきであるとされている。
二横位の場合の分娩までの経過
1 妊娠期間中に横位であることは稀ではないが、多くは分娩開始までに、自然回転により、または外回転術(腹壁上から術者の両手で胎児の位置を変える方法で、通常頭位に回転するのに用いる。破水前あるいは破水直後で胎児の移動が容易なもの、通常妊娠八か月以後の骨盤位あるいは横位で、他に合併症のないものに対して行われる)により縦位になり、分娩直前までに横位である場合は統計上約0.3パーセントにすぎず、きわめて異常な分娩である。
2 成熟児の場合、横位のままでは、生児で経膣分娩することはできないため、縦位に回転しない場合は、帝王切開によるほかはなく、横位のままで分娩が進展すると、早期破水、上肢脱出、臍帯脱出(破水後に臍帯が、胎児先進部を越えて下方に存在し、内診や、視診で膣内または外陰に直接認められる状態)を起こし易く、後記三3のとおり胎児に危険があり、母体には子宮破裂の危険がある。
三分娩期に横位である場合にとるべき処置
1 分娩期に横位である場合の処置は、妊婦が初産婦か経産婦か、横位の原因、妊娠中の胎位の推移、陳痛の状況、子宮口の開大度、破水の有無などの条件によって異なるが、横位の原因が単に腹壁や子宮壁の弛緩によるとみられ、妊娠経過中にもしばしば横位から縦位へ自然回転している場合は、子宮収縮の開始、増強によって子宮腔が縦に長く横に短い形状に変形しようとするため、横位が自然に矯正されて縦位に回転することがある。この場合には、経膣分娩の適応があるが、分娩開始後縦位に自然回転する場合は少なく、分娩が進展するほど自然回転は困難となる。
2 産婦人科医として取りうる処置としては、次の方法がある。
(一) 横位と確定した段階で帝王切開を行なう。
(二) 自然回転による胎位の矯正を期待して経過を観察し、子宮口が全開大するまでの間外回転術を試みる。但し、外回転術は破水のおそれがあるから注意を要する。
(三) 右の場合に横位のままで経過した場合、子宮口が全開大した後に積極的に破膜し、内回転術(子宮腔内に挿入した手で胎児の下肢をつかみ腹壁にあてた外手の協力によって胎児を子宮腔内で回転し骨盤位に矯正し、そのまま牽出する術)を試みる。但し、子宮破裂のおそれがあるから、内回転術は熟練していないと困難である。
(四) 右(二)の場合に横位のままで子宮口が全開大するまで経過した場合、破水させないように注意しながら帝王切開を行なう。
3 横位のままで破水した場合の胎児の危険性
(一) 横位のままで、子宮口が全開大し破水すると、臍帯が胎児と子宮壁に挟まれて圧迫を受ける可能性があり、そうすると、子宮・胎盤・臍帯を流れる血液量が減少するか、これらの血液中の酸素量が減少し、胎児の低酸素状態、無酸素状態が発生する。そして、この状態が持続すると、特に胎児の中枢神経系が酸素不足となり、胎児に重大な障害を惹起する。
(二) また、子宮口を塞ぐべき胎児の先進部がないため、羊水は時間的経過とともに比較的容易に流出し、子宮壁と胎児とが密着し、しかも、羊水が流出して、子宮容積が急に減少するため、陳痛が一時緩解するが、再び陳痛が強くなり、子宮内腔が縦方向に伸び、横方向に縮むため、横位の胎児は頭部と頸部とを左右から折れ曲がるように圧迫されて、不自然な姿勢を強いられ、胎児体内における正常な血液循環が障害されて、特に中枢神経系などの血流量が不足し、酸素不足状態、無酸素状態を生ずる可能性が高い。
(三) 更に、臍帯脱出をおこす可能性が著しく高く、臍帯脱出をおこすと臍帯が胎児と産道の間に挟まれ圧迫されて、臍帯内を流れる血液量が減少し、短時間内に胎児の低酸素状態、無酸素状態を引き起こすおそれがあるから、臍帯脱出があると、分を争い帝王切開が必要になる。
4 帝王切開の準備
帝王切開の準備としては、手術器具セットの消毒、手術着等の消毒、麻酔器の点検、麻酔薬の準備、手術台のセットなどを必要とし、昭和五二年当時、一般開業医において、帝王切開の準備には約一時間を要した。
5 ダブル・セット・アップ
横位で破水した場合には、可能な限り早く、胎児を娩出させる必要がある。
そこで、横位で子宮口が二横指開大した時点で、なお横位である場合には、縦位に自然回転する可能性が少ないから、直ちに帝王切開の準備をすることが適切である。
このように、経膣分娩ができない可能性が高い場合に、自然回転または胎位の矯正の処置を行うことと併行して、帝王切開の決定をした段階で、直ちに帝王切開ができるように、あらかじめ帝王切開の準備を開始することを、「ダブル・セット・アップ」といい、昭和五二年当時、一般開業医において、少なからず実行されていた。
四胎児の酸素状態の観察等
胎児の正常な心音は、母体の腹部にトラウベ(産科用聴診器)を当てがい聴取し、心拍数が一分間に約一三〇回ないし約一四〇回であれば正常であるが、陣痛がある場合には、陣痛間けつ時に聴取するが、横位で破水している場合には、陣痛間けつ時に聴取し、胎児の心拍数を監視する。
胎児の低酸素状態、無酸素状態の徴候としては、胎児の心拍数の低下や羊水の混濁の起こることが認められているが、しかし、羊水の混濁は起こらない場合もあるし、また、胎児の心拍数は低下したり正常となったりするから、頻繁に聴取しないと、正常値の部分のみを聴取していることになる場合もある。
帝王切開の直前まで児心音(心拍数)が全く正常で、五、六分後仮死二度で娩出されることは非常に稀なことであるし、また、医学統計上胎児の低酸素状態、無酸素状態が五、六分間の場合には、たとえ娩出時の胎児の仮死の状態が重症であっても、蘇生によって速やかに回復し、後遺症を残すことは稀とされ、また、後遺症を残さない母体内での低酸素状態、無酸素状態の最大限は一五分間とされている。
五新生児仮死蘇生の方法
新生児仮死蘇生の方法としては、気管内挿管し酸素吸入する方法、人工蘇生器による方法、マウス・ツウ・マウスの方法、胸を圧迫する方法による人工呼吸の方法があり、いずれも新生児仮死蘇生の方法として、合理的な方法である。気管内挿管できるほど弱っている場合には、気管内挿管し酸素吸入するのが理想的であるし、また、仮死二度の新生児では気管内挿管は容易である。
六脳性小児麻痺の原因
脳性小児麻痺の原因を分類すると次のとおりである。
1 先天性の中枢神経系の異常
脳水腫、小頭症、子宮内発育遅滞、その他不明の原因。
2 感染症(子宮内または出生後)
脳炎(ビールス性、または細菌性)、脳脊髄膜炎(ビールス性または細菌性)
3 新生児溶血性疾患
血液型不整合、肝機能障害、原因不明の黄疸による各黄疸
4 酸素欠乏性脳障害
(一) 妊娠中 胎盤機能不全(妊娠中毒症など)、母体の低酸素症
(二)出生時 胎盤機能不全(妊娠中毒症など)、子宮・胎盤血流障害(妊娠中毒症など)、母体の低酸素症、臍帯血流障害(臍帯脱出・臍帯圧迫など)、胎児循環不全(胎児体部の圧迫)
(三) 分娩直後 肺機能不全による低酸素症
5 外傷性脳障害 胎児頭蓋内出血
以上の事実が認められる。
第三本件後遺症の原因
脳性小児麻痺については、その発生原因として前記第二、六の各原因が想定されるところ、前記第一、第二に認定した事実からすれば、原告節子には、妊娠中毒症などによる胎盤機能不全はなく、また、出生時の原告則英の体重が三二三〇グラムで、発育正常であった点からも妊娠中に胎児の中枢神経系に異常が起きた可能性は低く、また、感染症の徴候、黄疸の症状、出生時の母体の低酸素症、分娩直後の肺機能不全による低酸素症を疑う証拠はないから、結局、本件後遺症の原因としては、先天性原因による中枢神経系の異常か、出生時における臍帯血流障害、胎児循環障害による酸素欠乏性脳障害あるいはその両者の合併による脳障害が考えられることになる。そして、昭和五二年七月一五日午前一〇時一五分頃及び同日一〇時四〇分頃の胎児の心音(心拍数)は正常で、また羊水の混濁もなかったのに、前同日午前一一時四五分に娩出した際、原告則英の心拍数が一分間に一〇〇回前後で正常値の約一三〇回から約一四〇回を相当下回っていたことから、少なくともその頃には低酸素状態または無酸素状態に陥っていたことが推定でき、横位の場合に子宮口全開大で破水すると胎児の身体による臍帯の圧迫、胎児の不自然な姿勢による胎児血液循環の障害の可能性が高くなり、陣痛が再発すると、さらに右臍帯圧迫、胎児血液循環の障害が進展するところ、原告節子の陣痛は右破水まで規則正しく起きていて、良好であったから、破水後、まもなく再び陣痛が起きたと推認することができ、他方、帝王切開の開始時に心音が正常であったとすれば、娩出までの五、六分の間に低酸素状態または無酸素状態に陥り、仮死二度で娩出されたことになるが、これは稀なことであり、また娩出時に胎児の仮死の状態が重症であっても、蘇生によって速やかに回復し、後遺症を残すことは稀とされているから、帝王切開の開始時に児心音が正常であったとは考えにくい。
以上によれば、本件後遺症は、先天性原因による中枢神経系の異常によることは否定され、そして、帝王切開の準備を開始してから娩出までの約一時間五分の間に、胎児が、臍帯の圧迫による血流障害や異常な姿勢での圧迫による胎児身体内での血液の循環障害により、次第に、低酸素状態または無酸素状態に陥ったことが原因であると推認するのが相当である。
第四被告らの責任について
一被告医師の不法行為責任について
1 被告医師の診療上の過失について
(一) 入院時に胎位を正しく診断しなかったことについて
前記第一、第二に認定した事実のとおり、胎位によって分娩の方法が異なり、特に、横位で分娩が進展すると、帝王切開によらなければ、胎児及び母体に重大な危険が生じることから胎位の診断が重要であり、他方、胎位の診断は一般にそれほど困難ではなく、被告医師はレントゲン検査等で確定診断することもできたのであるが、しかし、被告医師は、原告節子を内診して、横位である確率を八割として、横位である可能性が著しく高いと診断していたのであるから、横位と確定診断した場合と異ならないし、レントゲン検査はできるだけ避けることが望ましいのであるから、右の事情のもとでは、胎位の確定診断をしなかったこと自体をもって、過失があるということはできない。
(二) 入院時直ちに帝王切開の準備をしなかったことについて
(1) 前記第一、第二に認定した事実を総合すれば、原告節子は、妊娠中に胎位が相当変遷し、また、経産婦で子宮壁も柔らかく羊水もやや多く、入院した時点で胎児、母体とも異常はなく、子宮口は3.5横指開大で、陣痛は未だ不規則であって、破水前の状態であったから、子宮口全開大まで、自然回転を期待して待機した被告医師の処置自体は、産婦人科医として相当な処置であって何ら過失があるということはできない。
(2) ところで、横位のままで子宮口が全開大し破水した場合の胎児の危険性及び帝王切開の準備には通常約一時間を要することは前記第二、三、3、4のとおりであり、そのため、昭和五二年当時、一般開業医においても、横位の場合や横位の可能性の高い場合で、子宮口が二横指開大に進展し、ある程度陣痛がある場合は、自然回転を期待して待機することと並んで自然回転による胎位の矯正が不能と判断され、帝王切開の決定をした段階で直ちに帝王切開できるようにあらかじめ帝王切開の準備を開始するいわゆるダブル・セット・アップの処置をなすことが適切であり、このことが少なからず実行されていたことは、前記第二、三、5に認定のとおりである。
(3) そして、前記第一に認定のとおり、原告節子は、入院診察時である昭和五二年七月一五日午前一〇時一五分頃、横位である確率が八割であると診断され、分娩予定日を経過し胎児は異常なく発育し、子宮口は3.5横指開大で、陳痛は七分から一五分間隔で発来しており、伊藤病院では帝王切開の準備に約一時間を要していたのである。
そうすると、産婦人科医としては、その後の分娩の進展過程において、横位のままで推移した場合の危険を予想して、自然回転を期待して待機するのみでなく、胎児の安全な娩出のために、直ちに帝王切開の準備をすべきであり、前同日午前一〇時一五分頃に、直ちに帝王切開の準備(その指示を含む)をしなかった被告医師の処置には過失があるというべきである。
(4) もっとも、前記第一に認定のとおり、前同日午前一〇時一五分頃、被告医師は、看護婦に対して帝王切開のあることを告げ、その下準備を指示しているが、前同日午前一〇時四〇分頃に帝王切開を決定してから原告則英の娩出まで一時間五分を要し、この時間は通常伊藤病院で帝王切開の準備をする時間とほぼ同じであるから、仮に被告医師の指示により右下準備がなされていたとしても(もっとも、その内容が不明である)、帝王切開の準備としては不十分であり、医療的処置として妥当ではなく、前記ダブル・セット・アップがなされていたとはいえない。
(三) 外回転術をしなかったことについて
前記第一、第二に認定の事実からすると、子宮口全開大までは外回転術の適応があるが、破水の危険もあるから、被告医師が、昭和五二年七月一五日午前一〇時一五分頃に、多少の外回転術を試みた程度であったこと自体は、産婦人科医としては不相当な処置ではなく、過失があるということはできない。
(四) 内回転術をしなかったこについて
前記第一、第二に認定の事実からすると、子宮口が全開大し破水した場合には、内回転術の適応があるが、内回転術には熟練を要し、子宮内破裂の危険があるから、慎重にすべきであり、被告医師が、内診の際胎児の足を容易に掴むことができなかったため、内回転術を不可能と判断して内回転術をしなかったことは、産婦人科医として不相当な処置ではなく、過失があるということはできない。
(五) 新生児仮死蘇生を適切に行なわなかったことについて
前記第一、第二に認定の事実からすると、原告則英に対してなされた、被告医師の人工蘇生器等による仮死蘇生の方法は、新生児仮死蘇生の方法として、いずれも合理的な蘇生方法であるところ、治療として如何なる処置をとるべきかは、当該治療に当たる医師が患者の状況等に基づき、その専門的知識経験に従い決すべきであり、考えられる幾つかの処置が医師のとるべき処置として合理的である限り、そのいずれを選ぶべきかは当該医師の判断によることであり、その中のある方法を選ばなかったことをもって、ただちに過失ありということはできない。そうすると、仮死二度の状態にあった原告則英に対する仮死蘇生の方法としては、気管内挿管し酸素吸入する方法があったとしても、被告医師が気管内挿管し酸素吸入する方法をとらなかった処置をもって、過失があるということはできない。
(六) 転医(転送)を適切に行なわなかったことについて
(1) 前記第一、第二、第三に認定の事実からすると、原告則英は仮死二度で娩出され、全身にチアノーゼがみられ、呼吸は非常に不整で粗く、下顎にけいれんがみられたのであるから、その時点において新生児集中治療施設の設備を有する小児専門医に転送するのが相当ではあったが、原告則英は相当な方法による蘇生方法によっても蘇生に約一五分を要し、回復不可能な中枢神経系の障害をおこしていたと推定できるから、転送しても本件後遺症が回復されたかは極めて疑問であり、また、被告医師は、原告則英が啼泣した後、同人を直ちに保育器に入れ、保温をしながら酸素を供給していたのであり、また、このことにより本件後遺症に原因を与えたことを具体的に認める証拠もないから、右転送が遅れたことに過失があるということはできない。
(2) また、前記第一に認定の事実によれば、被告医師は、昭和五二年七月一六日午前一〇時頃、原告則英の家族の車で、保育器に収容することなく、同人を転送しており、呼吸がいぜんとして不整で、全身けいれんを起こし、けいれんが頻発していたのであるから、その転送の方法は相当であったとはいえないにしても、右転送時は娩出から約二二時間を経過し、前述のとおり、回復不可能な中枢神経系の障害をおこしていたと推認でき、また、右転送の方法が本件後遺症に原因を与えたことを具体的に認める証拠もないから、本件後遺症との関係で右転送の方法に過失があったということはできない。
2 そこで、次に、入院時に直ちに帝王切開の準備をしなかった過失と本件後遺症との因果関係について判断する。
(一) 前記第一、第二、第三に認定の事実からすると、昭和五二年七月一五日午前一〇時一五分頃、被告医師が原告節子を内診し、横位の確率が八割で、子宮口が3.5横指開大し、陣痛が起きていることを認めた時点でただちに帝王切開の準備をしていれば、約二五分間早く帝王切開を開始でき、その時間だけ早く、即ち同日午前一一時二〇分頃に原告則英を娩出できたことになり、そして、本件の後遺症の発生原因が、前記第三に認定したとおり、同日午前一〇時四〇分頃から同一一時四五分頃までの間に、母体内における低酸素状態ないし無酸素状態が発生し、その状態が同一一時四五分頃まで継続したためであると推認できるから、入院時に直ちに帝王切開の準備をしなかった過失と本件後遺症との間には、因果関係があるということができる。
(二) しかし、前記第一ないし第三に認定の事実からすると、母体内における低酸素状態ないし無酸素状態が、同日午前一〇時四〇分頃から同一一時四五分頃までの間の何時の時点から発生したのか、児心音の記録がないため明らかではないが、破水後は一時陣痛が緩解するものの、ほどなく陣痛が再開して次第に強くなると、それにつれて胎児圧迫により胎児体内の循環不全が著しくなり、また、臍帯圧迫により血流障害となること、蘇生によっても後遺症が残るのは低酸素状態ないし無酸素状態が約一五分以上の場合であること等を考慮すると、原告節子が破水し、被告医師が帝王切開を決定した午前一〇時四〇分から本来ならば原告則英を娩出できた午前一一時二〇分までの四〇分間に、原告則英が母体内ですでに低酸素状態または無酸素状態になっていたことにより、酸素欠乏性脳障害の後遺症が発生し得ることは十分推定できるのであり、そうすると、仮りに、同日午前一〇時一五分の入院後直ちに帝王切開の準備を開始し、午前一一時二〇分に娩出できたとしても、後遺症発生の可能性が十分に考えられるのである。もっとも、娩出時である午前一一時四五分に近い時点の二五分間において、より一層低酸素状態または無酸素状態が進展し、これによる後遺症の程度が重症化したものと考えられる。
(三) 従って、本件後遺症は被告医師の過失と因果関係があることは明らかであるものの、被告医師の責任の範囲に属さないと認められる右事情も加わって、本件後遺症が発生したものというべきであり、そして、以上認定の諸事情からすると、被告医師の過失が寄与している割合を三分の二と認めるのが相当であるから、被告医師は、本件後遺症により原告則英が被った損害のうちその三分の二について責任を負うというべきである。
二被告法人の使用者責任について
1 被告医師は、被告法人の経営する伊藤病院に勤務する被告法人の被用者であることは当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、前記第一に認定した被告医師の診療行為は、被告法人の被用者として、その職務の執行につきなされたものと認められ、右認定に反する証拠はない。
2 そうすると、前記第四、一に述べたとおり、被告医師には本件後遺症に基づく損害につき不法行為が成立するので、被告法人は、本件後遺症に基づく損害につき、民法七一五条一項により、被告医師が原告らに与えた本件後遺症に基づく損害を賠償する義務がある。
三被告法人の債務不履行責任について
1 請求原因3(三)(1)の事実は当事者間に争いがないから、被告法人は、原告則英に対し、診療契約に基づき、原告節子の分娩に際し、原告則英の安全な娩出及び娩出後の疾患の治療につき当時の医療水準に基づく治療をなすべき義務を負った。
2 そして、被告医師は被告法人の被用者であり、その履行補助者として、前記第一に認定の診療行為をし、同診療行為は前記第四、一に述べたとおり、右診療契約上の義務に違反する不完全履行であるというべきである。
よって、被告法人は、履行補助者である被告医師の、前記第一に認定の診療行為につき、不完全履行に基づく債務不履行責任があり、その損害賠償額については使用者責任に基づくものを越えることはない。
第五 損害
そこで、本件不法行為に基づく損害について検討する。
一原告則英の損害
1 介護費
原告則英は、前記第一に認定のとおり、脳性小児麻痺により、一一歳の現在に至るまで訓練を受けても、歩行、起立ができず、言葉も殆んど話せず、自分ひとりで食事することもできない状態であり、現在は原告節子が養護学校への送迎をはじめ身の回りの世話をしているが、今後も生涯にわたり、同様の介護を必要とする。
そこで、原告則英の介護料としては、平均余命の七二年間(昭和五二年度簡易生命表による。但し小数点以下切捨て)、一日につき三〇〇〇円をもって相当し、ホフマン式計算法により、年五分の割合による中間利息を控除してその現価を計算し、そして、これについて、前記判示の寄与率である三分の二を乗ずると、介護料は金二一九九万七六〇〇円となる。
(計算式 3,000円×365×30.1337×2/3=21,997,600円)
2 逸失利益
原告則英は、現在一一歳であるところ、前記第一に認定のとおり、本件後遺症により、労働能力を一〇〇パーセント喪失したものと認められるから、一八歳から六七歳までの四九年間を、その稼動可能年数とし、昭和五二年度賃金センサス第一巻、第一表、産業計、企業規模計、学歴計、男子労働者平均賃金(一八歳ないし一九歳)の年間給与額一二八万一五〇〇円を基礎とし、ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除し、その現価を算出し、そして、これについて、前記判示の寄与率である三分の二を乗ずると、逸失利益は金一四〇二万七四六九円となる。
{計算式1,281,500円×(29.0224−12.6032)×2/3=14,027,469円}
3 慰謝料
本件後遺症の程度及びこれに対する被告医師の過失の寄与率等に照らし、原告則英に対する慰謝料としては金六〇〇万円をもって相当と認める。
二原告徳延、同節子の損害
1 原告徳延、同節子は、原告則英の両親として、同人が本件後遺症のような重大な障害を受けたことにより、その死亡の場合に比肩しうるような精神的苦痛を味わったものと認められること、これに対する被告医師の過失の寄与率等その他前記認定の諸事実に照らすと、これに対する慰謝料として、右原告ら各人につき金三〇〇万円をもって相当と認める。
2 弁護士費用
原告らが本訴の提起、追行を弁護士たる代理人に委任したことは明らかであるが、本件の損害の程度、訴訟の難易認容額等諸般の事情に照らし、被告らの不法行為と相当因果関係のある弁護士費用の額は原告徳延、同節子につき各金一二五万円をもって相当と認める。
第六結論
以上の次第で、原告則英の本訴請求は、被告らに対し、各自金四二〇二万五〇六九円及びこれに対する不法行為の日である昭和五二年七月一五日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、原告徳延、同節子の本訴請求は、被告らに対し、各金四二五万円及びこれに対する不法行為の日である昭和五二年七月一五日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、いずれも理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言につき同法一九六条を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官林輝 裁判官松村恒 裁判官髙橋光雄)